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独立した当初、食べるための仕事はアルバイト以外殆ど無く、伝統工芸の金工の本を片手に、 一人教室で黙々と、作る日々が続きましたが、よく生活出来たものです。 この時の知識は、後々非常に役に立ちました。 原型の仕事は、某彫金教室でやった仕事がきっかけとなり、メーカーから直接注文してくれましたが、そのメーカーも銀物からPtやk18物を始めた時なので、お互い原型がどういうものかよく解からず、試行錯誤。 今思うと、よく注文してくれたものです。 このメーカーとの出会いが、髭猿の原型の仕事を育ててくれた、恩人(会社)ですね。 そんなわけで、サンプルや注文主からの原型が、参考に添付されると、この機とばかり、ルーペで観察、かずかなロー付け跡を頼りに、作り方を探りまくりました。 中には、どうしてこんな作り方をするのか解からず、自分なりに作り方を換え、なんとか形にしたものもあります。 こんな事の積み重ねで、だんだん解かってきて、サンプルが無くても作れるようになると同時に、 返品、修正も殆ど無くなり、注文主からメーカーの方に、「あの原型を作った人に、やらせて」と、 指名で仕事も来るようになり、どうにか原型で食べられるようになったのです。 ここまで来るのに、5〜6年掛かりました。 あの時は、子供もいて後が無かった事もあり、必死でやっていたと思います。 このとき自戒としていたのは、「同じ失敗は二度と繰り返さない、どんな仕事でも断らない」 と言う言葉で、このお陰で色々な事を、習得できたのかもしれません。 当時は、たえず悩んでいました。 寝ても覚めてもの状態です。 子供にお金が掛かるようになると、仕事も順調に忙しくなってきましたが、自由時間は殆どなくなりました。 徹夜、貫徹は当たり前、食事とわずかの睡眠時間以外は仕事をしていました。 教室をやっている時は、絶対仕事をしないと決めていましたので、休めるのはこの時と、納品の電車の中ぐらいでした。 当時の生徒達もこのことは解かってくれていたようで、何時も心配を掛けていました。 起きれず、生徒達に起こされた事も何回か有りました。 自習をしながら「一時間経ったら起こそう」と、話し合っていたそうです。 ついに、ダウンする時が来ました。 43歳の時、わき腹に激痛が走り即入院、それから4ヶ月間入院、教室は5ヶ月休みと成りました。 以下次回につづく |
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